コールサックシリーズ

朝倉宏哉詩集
『乳粥』
少年僧が手のひらに杓で乳粥をよそってくれた 零さないようにおしいただいて見つめるそれはヒマラヤのようにまぶしかった
わたしはまぶしさを口に入れた 温かかった 質素だった 喉元を通るとき かすかにスジャーターの乳粥の味がした

(詩「乳粥」より)
栞解説文:鈴木比佐雄
A5判/122頁/上製本
定価:2,160円(税込)

解説文はこちら

chichigayu

発売:2006年9月30日



【目次 

一章 乳粥


  乳粥
  天池
  勝山号
  がんじがらめ
  吼えている山
  敦煌の町を歩く
  待ってください
  明日から来る今日



二章 金色の狐


  金色の狐
  深夜の酒宴
  この広い野原いっぱいの草
  カマキリ誕生
  パブロフの犬
  三本の樹
  グ・ズ・ダ
  ミイラと少女と二羽のスズメ



三章 隠れびと


  隠れびと
  誘蛾灯
  微笑
  生前墓
  神秘から謎までの日日
  二つの腕時計
  風と雲と空と太陽と
  人類文化学園共働農場



 あとがき



【詩集題の詩を紹介】 


乳粥


少年ラマ僧がわたしの手のひらによそってくれた乳粥はヒマラヤのようにまぶしかった

五月のある朝 北インド・ダラムサラの山上の寺院にチベット人たちが続続と集まってきた かれらは境内に茣蓙を敷いて座る やがて本堂で読経が始まる ラマ僧たちの野太く澄んだ声明が境内に流れヒマラヤの雪の連峰へと渡っていく

かれら老若男女は静かに耳を傾ける 穏やかな表情で くつろいだ様子で あるいは祈りのかたち 瞑想する趺坐の姿勢で 

かれらはみな難民である 読経しているラマ僧たちも難民である
一九五九年 中国の侵略と弾圧で信仰と誇り以外のすべてを捨ててダライ・ラマとともに雪のヒマラヤを越えてきた難民とその子孫である 祖国は奪われ寺院は壊され百万人が殺されたという

辛酸を舐め尽くし祖国の独立と帰還を願う難民たち 老人の顔には谷間のような皺 少女の瞳には薄雪草のような憂い

ダラムサラの渓谷にへばりつくように一万五千人のチベット人が暮らしている ここには亡命政府があり役所があり学校があり病院があり寺院があり難民収容センターがある 今も死と飢餓と凍傷の危険を冒しヒマラヤを越えて毎年二千人が亡命してくるという

にも拘らずこの浄らかな静謐は何だろう 昨日 夜行列車とバスを乗り継いで辿り着いた異国の旅人を引きつけるこの不思議な力は

正午 読経は済んだ 臙脂の袈裟を纏った高僧たちが現れる どの僧もなぜかダライ・ラマのように見える 合掌で迎える人 五体投地で迎える人 その人人のなかに僧たちは座る 少年僧たちがいそいそとポリ容器で乳粥を運んでくる みな懐からお椀と箸を出す

ああ これだったのだ かれらが朝から待っていたもの ヒマラヤを望んで読経を聴き 僧侶とともに一椀の乳粥を頂くやすらぎ

二千五百年前 ブッダ・ゴータマは苦行のあとの衰弱した躰を村の少女スジャーターがささげる乳粥で癒し 菩提樹の下で瞑想した
―わたしは仏教の誕生物語に想いを馳せ 原始仏教を純粋に伝えてきた山岳の国チベットの人人のこころの神髄に触れたと思った

悠久の今を共有しながら乳粥を味わうかれらの眼前にヒマラヤが聳え立つ その彼方は失われた祖国 今も喘いでいる同胞がいる

「あなたもどうぞ」隣の媼がわたしにも乳粥を勧めた 「器が無い」と身振りで言うと「お手を出しなさい」と菩薩のように微笑(ほほえ)んだ
少年僧が手のひらに杓で乳粥をよそってくれた 零さないようにおしいただいて見つめるそれはヒマラヤのようにまぶしかった

わたしはまぶしさを口に入れた 温かかった 質素だった 喉元を通るとき かすかにスジャーターの乳粥の味がした



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