<経歴>
1930年、名古屋生まれ、神戸市在住。
詩集『ひびきのない合図』『日常的風景』『霧がはれる』『中国詩片』『暮れなずむ』『天神筋界隈』『きざはしに腰をおろして』『直原弘道の大震災私記』『断層地帯』『日本現代詩文庫 直原弘道詩集』『異郷への旅』。
詩画集『馬と鶏』。
日本現代詩人会、日本詩人クラブ、兵庫県現代詩協会、「新現代詩」、「現代詩神戸」、各会員。
<詩作品>
記憶の意味
気だるい夏の昼下がり
土間の裸天井の煤けた梁から
燕の巣を狙っていた大きな青大将が
どたりと落ちてくる
自分を支える手も足もないので
仕損じた蛇はきまり悪げに
のろのろと姿を消す
夕立を避けて駆け込んでくる行商人
煙草入れを下げてやってくる隣の隠居
表から裏へ駆け抜ける洟垂れ小僧や犬や猫
毎年律儀にやって来たツバメ
夜も昼も開け放たれていた
母屋の土間を
吹き抜ける風
あり様が変わってしまったのだ
他者の立ち入りを拒んで
ひとは扉を閉じるようになった
危険な知恵の鍵をいくつかこじ開けて
豊かになったと思い
かつての記憶の意味を忘れてしまった
炎天下に佇む廃屋の前で
二世代の季節の移りを想い
記憶の意味も失われたと
老いた少年がつぶやいている
峠を越えて
この峠の高さは四千三百メートルですと
同行した漢族の人が計器を見ながら言う。
前頭部の鈍い痛みに耐えて
山から山を渡りうねうねと
下降していく足下の道を見つめる。
これが旅のはじまりなのだ。
岩肌を剝き出しにした山が連なり
その中腹を車は虫のように這っていく。
浅い表土がいたるところで崩れ落ち
旧い崩れには低潅木が根をおろす。
棚田のようななだらかな斜面に
貧しい麦がそよいでいる。
谷の向こうの草地には放牧された犛牛が
群れをつくっている。
道端の斜面に小さな村の学校が佇んでいて
道はその下を抜けていく。
長い単調な道程のなかで
途切れ途切れに現れ
消えていった光景。
やがて最初の目的地
巨大な戦士群像が
私たちを見下ろして建っている
旧八路軍の宿営記念地に達する。
こんな辺境の山奥にまで分け入って来た
彼らの目的は何だったのだろう。
そして
六十年前の敗戦国民として
いまこの異郷の地にまでやってきた
私たちの旅の目的は何だったか。
車を止めた広場の隅で
西蔵族の農婦たちが売っている
赤を基調にした手織りの厚いショールと
ときたま襲ってくる
頭蓋のなかの微かな痛み。
叢のなかに
エーデルワイスに似た花が咲いている。