<経歴>
1949年生まれ、東京在住。
詩集『歩道橋』『交差点』『隅田川の堤』『マサヒロ兄さん』『もぎ取られた青春』『水俣のこころ』『独りぽっちの人生』。
詩画集『母さんの海』。
ニッポン放送テレホン人生相談回答者。
全国空襲被害者連絡協議会の運動に携わっている。
日本詩人クラブ会員。
<詩作品>
夕 日
― 私は 今でも 夕日が 嫌いです
語気を強め 言い切る 石川智恵子 六九歳
東京大空襲訴訟で 証人尋問にたつ 彼女
打合せ場所を わが家にした 代理人の夫
二人の 傍らで 茶を入れながら
彼女の話に 聞き入った
三月一日 六歳の誕生日をむかえた 智恵子は
深川で 三月一〇日の 東京大空襲にみまわれ
両親と 二人の兄弟を
亡くしたと言う
あの日 一二歳の姉に 背負われ
智恵子が 目にした 光景とは
焼けて小さくなった 黒い死体が
道いっぱいに 折り重なり
人が歩ける分だけ
脇にどけられていた
まさに 地獄だったと言う
一二歳の長女と一〇歳の長兄
智恵子が 生き残った
翌日 三人は
別々の親戚に 引き取られた
その日から
智恵子の 孤独との
戦いが 始まった
六歳の智恵子は
労働力には ならない
役に立たない
彼女の 食事は
小さい芋 一個か
一握りの ご飯だけ
みそ汁の 味も
お新香の 味も
知らないでいた
家に 居場所を 持てない
智恵子は
夕日に 向かい
お父ちゃん! お母ちゃん!
一人泣きながら
叫んでいたと言う
土手の夕日が 沈むころ
そっと帰り 部屋の隅に
隠れるように
座っていたと語る
小学校に入った 智恵子に
姉の居場所が 知らされた
学校で必要な 一切を
姉から 貰うためにだ
小学校を出た 姉は
女中奉公で 給金を貰い
食べることも できていた
長く延びた 黒い影が
田畑にとけこみ
夕日の落ちた あぜ道を
智恵子は 姉の所に
行かなくてはと
心細さに ふるえ
涙をこらえ 一心に
歩いたものだと話した
明るい時間に
姉の所に着くと
家に返されるので
夕日を背に
暗くなってから
辿りつくようにと
子どもなりの
知恵だったと
苦笑した
六三年経った いまも
夕日は 智恵子を
幼い日の 不安で
寂しかった日々にと
引き戻す
別 れ
一九四五年三月一〇日 未明
風の音と 重なりながら
B29の飛来音がした
城東区大島の夜空には
真っ赤な炎が 爪を立て
熱風が 渦巻き
燃える 電線が
荒れ狂っていた
母の背に負ぶわれ
命をつないだ
一歳の 幸一
この夜 父は
町内の人の
安否を気遣って
妻子を 逃がし
その場に 止まった
彼は 父の顔も 声も
知ることなく育った
母は 五人の子を
女手一つで育てた
母は 生活保護を
受けながら
父の分まで 働いた
中学を出た兄さん
中学を終えた姉さんも 働いた
極貧生活は 幸一から
笑顔と言葉を 奪っていた
彼は 焼け跡のバラックから
小学校に入学した
彼は 友だちに
心を開くことができなかった
彼は 先生に
心を開くことができないでいた
教室の隅で 黙々と
絵を描きつづける 幸一だった