【経歴】
1932年岡山生まれ。岡山県総社市在住。
詩集『くにさだきみ詩選集130篇』など、詩論集『しなやかな抵抗の詩想―詩人の生き方と言葉のあり方(1962-2010)』。
個人誌「径」発行。詩人会議、日本現代詩人会会員。
「コールサック」に参加。
壷井繁治賞、富田砕花賞を受賞。
【詩を紹介】
ホタルイカの自決
ホタルイカの「身投げ」というものを 映像で見た。
あれは
ほんとうに 「身投げ」だったのか。
海から陸へ、
大量に打ちあげられていく
やわらかいもの 光らないもの―
ひょっとしてあれは 自決だったかも知れないのだ。
浅瀬には ホタルイカの
目と目と目とが無数に散らばり、
手かも足かもわからないものが もつれあい
無抵抗に、
浮かんだり沈んだり
からまりあったり 流れたりしている。
あの日
断崖に追い詰められたヒトビトは どうして
自殺ではなく
「集団自決」をしなければならなかったのか。
手と手と手とは 目と目と目とは
何を見つめながら(思いながら)
イノチを断っていったのだろう。
ムスコや ムスメや ハハオヤの―
ニンゲンの「自決」とは何だったろう。歴史の中で。
海から陸へ
波は 投網のように打ちあげられ、
陸から海へ
崩れるかたちに 砂粒が引き戻される。
テレビは 次の瞬間、
手に手に網(タモ)を持ち 裾をからげて
ズラズラズラっと波打ち際に佇ち並ぶ
ニンゲンの 目や手や足を映していた。
捕られる一瞬、
ホタルイカはあんなにも海をしたたらせ
あんなにも
ペッタリとひとかたまりになるものだろうか。
(血さえ吹かない ただの白いものを)
しっかりと網(タモ)にからまれていて―
ニュースは ひとつの「身投げ」で静かに終わった。
「集団自決」とは、
オキナワの だれが どこに
打ちあげられた話だったか。
その日はどんな色と
どんな臭いの 何がしたたり
だれとだれとが
どんな網(タモ)を持ち波打ち際で待ちうけたのか。
映像はそのあたりで音を消し 途切れる。
*
もう半世紀を超えようというのに
へいわ。
へいわ。
へいわ。
へいわ。
と
海は―
投網の形相で打ちよせてくる。
波打ち際の
その日の記憶を呑みこんだままで―
闇の現(うつつ)
(3) 闇を鬻(ひさ)ぐ
敗戦からわずか五日後のこと。
関東尾津組の親分衆
喜之助が
「新宿マーケット」という
葦簀張り
青天井の店を開いた。
―光は新宿から―
そこでは
ほんのさきほど目覚めたばかりの
家財道具と食器類とが
輝いている。
(ピッカピカに磨きたてられて)
ご飯茶碗 一円二〇銭
素焼七輪 四円三〇銭
高下駄 二円八〇銭
フライ鍋 一五円
醤油樽 九円
ベークライト製の
皿や汁碗三ッ組 八円。
それらは
もはや統制価格の通用しない
闇価格であったし
闇市だった。
「鉄兜を鍋に更正致します。
二升炊
加工賃 七円九十銭」
白木の
木の蓋もきちんとつけられていて、
それは見事な
軍需産業からの脱却であったし
平和産業への転換であった。
八月十四日。
鈴木貫太郎内閣が、唐突にも
「軍その他の保有する
軍需用保有物資、資材の緊急処分の件」
という通達を流してしまったので、
軍放出の物資は
大量に―
民間に出まわるようになったのだけれど。
軍刀が
包丁やナイフ・ナタ・マサカリに更正されて―
機関銃の工場が
国産ミシンの製造に鞍替えしたという噂も流れて―
軍需産業は
どれほどの闇を潜り抜け(付加価値をつけ)
浮上して
平和産業への転換を成就したかが問われている。
―光は新宿から―
敗戦からわずか三日後のこと。
内務省、警保局長通達というものが
全国都道府県に無電で打たれて
(その要請を受けてのことであったのだろう。)
特殊慰安施設協会(RAA)では
「『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に
狂瀾を阻む防波堤を築き、
民族の純血を
百年の彼方に護持培養するとともに
戦後社会秩序の根本に
見えざる地下の柱たらんとす。」
と。
早速「昭和お吉」の募集を始めた。
「 急 告
特別女子従業員 募集
衣食住及ビ高給ヲ支給 前借ニモ応ズ
地方ヨリノ応募者ニハ 旅費ヲ支給ス
Recreation and Amusement Association. 」
―光は新宿から― だった。
―闇もまた新宿から― である。
戦時中
「従軍慰安婦」募集に協力した
「特殊慰安施設協会(RAA)所属の七団体」は、
戦後
〈人柱〉にネッカチーフをかぶらせて
〈人柱〉にハイヒールの靴をはかせて
「平和的」に―
「民主的」に―
身体(からだ)を米兵に鬻(ひさ)がせ続けた。
―ひっくり返した鉄兜を鍋にする仕方で―
参考文献 「昭和の歴史⑧ ―占領と民主主義」神田文人著